山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

役者の靴の裏・オバマのプロンプター

 今や我々はテレビのチャンネル数の多様性?と検証と称してのアバウトな事実の垂れ流し、それを基にした浅薄な議論のしっ放しを鵜呑みにして恥じない自己主体の喪失という現状には目を覆うものがある。
たとえ、TV画面に突っ込みを入れたところで、陳腐メディアに囚われていることに変わりはありません。
そんな垂れ流し情報の無防備な受け手と化している我々のお粗末な実情・実態に比べてなにしろ驚くのは、この日本に限らないだろうが、これまでの歴史的事実に登場する人物は善悪に拘わらず名を残していると言おうか、名が残っていまる事実です。戦国武将の首を取った葉っぱ武者の名前も正確に伝えられている。西郷の介錯をした別府晋介などはそのことのみで歴史に名を残しています。
勝者の綴った歴史といえども、敗者の名を惜しむ故のことなのか。
多分それは人間が命を的に、命がけで物事に当たっていたことの証左に違いなし。

そんな今、オバマと鳩山日米両首脳の会見を見ていて思うことは、どちらが、否どちらも命がけで事に当たっているのかどうか見極めたいとの一点に尽きる。
そして鳩山首相の発言から始まったこの会見を通して感じたこと。
それは就任以来マイペースを貫く、貫かざるを得ない相変らぬ鳩山首相の理系論理の発言内容に比べて、これまでMEDIAを通じてそのハイライトのみ見聞きしていたオバマ大統領の発言内容にかなりの物足りなさを感じたのは何故だろうか。
これはオバマ大統領に対しての多大なイメージ・思い込みが強くがための思いすごしなのか、期待したような内容まで踏み込んでの発言が無かった故なのか。
もしかして、お馴染みのプロンプターなしでの、練りに練られたメッセージの用意無での、会見であったからか。
ふっと、迫真の演技を見せる刑事もののドラマの中で、逃げる犯人と凄腕刑事どちらもの靴の裏が新品まっさらを見たときのガッカリ感に似ているように思えた。