山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬最後の帰郷⑧岡内書癇

 先にも述べた龍馬の頼もしい協力者であった岡内俊太郎の書簡によると『浦戸湾に着し、藩論の成り行き聞き合わせ見候ところ、いよいよニ派に分かれ、双方ともなかなか激烈にて、かへって私ども御国元出の時より烈しく、同志の方々もなかなか墳発いたし居り、また俗論も撓まず候有様にて・・・』
こうゆう状況だったので龍馬たちを「旅人となして種崎浦に隠し置き、それより種々龍馬らと謀議」した。
岡内の手紙から判断すると、彼は高知城下へ船で入り、情報を集めた後、また種崎の龍馬のところへ取って返したものと思われる。岡内は下横目とは云え、大目付佐々木三四郎の随員に取りたてられ、表向き「長崎景況」報告のため帰国したのであるから、城下への出入りは自由だったであろうと思われる。龍馬は岡内の才能を充分に発揮させている。
しかし、渡辺弥久馬と龍馬を会談させ、ライフル銃引き取りの交渉をするという要務を帯びていたから、行動は慎重でなければならなかった。彼は単なる下横目ではなく、現在で云う公安、治安情報の収集に優れた才能を持っていたようである。震天丸の船内が、中城家かで龍馬たちは謀議をした結果、木戸準一郎(孝允)から龍馬へ来た手紙と、龍馬が渡辺弥久馬に宛てて書いた手紙を「一対となし」、岡内が渡辺に届けに行くことに決めた。
山田一郎・・・)