山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

津野興亡史②千年前の土佐・須崎


ここで、少し当時の須崎地方がどれ程暗黒な様子であったか詳しく話してみよう。
そもそも延喜時代を記した各種の書物を総合してみると、『醍醐天皇は、道真を貶すという失敗はあったものの、素は英明な主上でありましたから、御心を政治に注がれて、慈仁の御行多く、また奢侈を禁じて、風俗を引き締められたので、海内よく治まって、人民は皆その業に安心をし、腹いっぱい食して楽しんだ』と有る様に、時風、枝も鳴らさぬほど穏やかな御代と讃えられるほどで、その他あらゆる、詩歌文書等を確かめてみても延喜の治を天暦の治とならべて、天下泰平の極みと賞賛し、その時代を過ごした人を羨んでいる。
しかし、これは中央即平安(京都)付近のことで、それ以外の地方に至っては、この恩澤を蒙ったのは、上流階級の社会のみであって、中流下層社会には殆ど及ぶことはなかった。
ましてや、国府から遠く離れた地方では、随分と強盗・大賊が横行闊歩しているところが多く有って、その為人々は塗炭の苦しみに遭って居りました。
この地須崎もご多分に漏れず、浮流の徒が至るところに出没し、腕力のある者は、力に任せて、近郷近在を略奪し、徒党を組んでは、町家に押し入り、家財道具は言うまでもなく、これに抵抗する者は片っ端に殺戮するというような有様で、人々はこの状況に恐れ慄いておりましたが、後難を恐れる余り、誰もこれを懲らしめようとするものもおらず、この事を領主へ訴えようとするものさえいなかった。
その為、ますます村民に対し、乱暴狼藉の限りを尽くしたので、世は之で終わりはしないかと思われる程無政府状態となっていました。