山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

容堂公の純愛物語①


龍馬伝では33歳ぐらいにも拘わらず、白髪シルバーの姿で毎回歯ぎしりを噛んでいる容堂公。
確かに、大酒のみでおまけに甘いもの好きで、虫歯・歯痛にはかなり悩ませられたとか。
その容堂公、正しくは土佐藩15代藩主豊信(とよしげ)公の墓は高知にはありません。
土佐藩主歴代の墓は筆山墓所に初代山内一豊公を最上段に、以下歴代の墓所が並んでいるが、容堂さんのお墓は見当たらない。
京浜急行鮫洲駅前の小高い丘の上に山内豊信の墓がある。容堂はその隠居名であります。
山内豊信安政の大獄井伊直弼ににらまれ、藩主を16代豊範にゆずり、隠居して容堂と称した。
ほんと、まだ33歳の若隠居である。
考えてみれば、その苦しい隠居生活を余儀なくされた品川の地に何故墓を造らせたんだろう。
容堂さんは文政10年(1827)高知に生まれる。と云う事は妾馥。弘化3年(1846)20歳で1500石の家督を継いだ。山内家の分家筋である。
嘉永元年(1848)6月16日、13代藩主山内豊熙(とよてる)が死去。9月18日、14代藩主となった山内豊惇(とよあつ)がわずか2ヶ月で死んだ。12月27日、分家の端の端の豊信が15代藩主となった。