山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

近江屋前後

高知に1000丁のライフル銃を運びこんだ龍馬は、10月9日上京して海援隊本部のある酢屋に入った。
10日、陸援隊の白川陣屋に龍馬を迎えた慎太郎は、用意した兵器や高張り提灯などを示し、「いつでも決起出来る」という意気込みを見せた。板倉筑前介から300両を借用して蜂起にそなえたものだ。
大政奉還を巡って全く対極にあった龍馬と慎太郎が近江屋で対面する事になったのは、宮川助五郎の取り扱いについて相談するためであったとされている。
宮川助五郎は上士の中で土佐勤王党に加盟した3人の一人で、五十人組の総頭として慎太郎らと共に上京し活動していたが、二年前の慶応二年(1866)九月十二日夜、京都三条大橋西詰の高札場で長州藩の罪状を記した制札を抜き去ろうとして、待ち伏せていた新撰組に捕えられ、六角獄舎に繋がれていた。
この十一月十五日、大政奉還が実現して土佐藩との軋轢を恐れた会津藩は宮川を釈放し、其の身柄は土佐藩の牢舎に移されていたので、その取り扱いを相談していたと言う事だ
それなら、この時期全く考えが違った両人が顔突き合わせて話しをしなければならなかった事情が分かる。そして悲劇は起こった・・・