山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

日露戦争・高橋是清ー経済戦争②

高橋是清はロンドンの金融街シテイで本格的な募集交渉を始める。同盟国のイギリスであったが、ビジネスについてはクールであった。
シテイでは、苦戦が予想される日本の外債の人気は無きに等しく、むしろロシアの外債の方が評判が良かった。
ロシアが負けたとしても広大な土地や鉱山などがある。日本は誠に小さな国で、資源もなく、担保の取りようが無いと言うのがその当時の評価だった。
是清は挫けず時間を懸けて銀行家、資本家を口説いて回る。バーズ銀行のロンドン支店長のアラン・シャンドを訪ねている。シャンドは明治5年から10年まで、「お雇い外国人」として日本に近代的な銀行業務(簿記など)を伝えた。こうして人脈を広げてゆき、滞在1ヶ月にして、ようやく外債の条件のアウトラインが決まって来た。
担保は関税収入で、利息は年利で6%、償還期間は7年、発行総額は500万ポンド。日本政府の要求は1000万ポンドだったが、この500万ポンドが限界だった。
ここで意外にも、先に渡米して交渉しようとして冷たくあしらわれた米国から救世主が現れる。
ニューヨークのクイーンロエブ商会の首席代表者で、全米ユダヤ人協会の大物ヤコブ・シフその人だった。