山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

西郷不死伝説

西郷隆盛には当時根強い生存説があった。明治10年10月25日付の大阪日報による「5人影武者」である。「先に城山籠城中、身体肥満西郷に譲らざる私学校の生徒、慨然として西郷に謁を乞い、今や東軍数万破竹の勢いを以て我が宣戦を十重二十重に取り囲み、日に厳重を加えれ如し。・・
先生もし一戦の下、不幸にして事ならずんば何れかに身を匿し、後図を計るべし。此の時には先生の身代わりなくては、東軍の捜索密にして、捕虜とならんも知り難し。我ら5人、幸いにして体肥え、恐れながら面容さえも先生に似たるところあれば、勝敗は兵家の常、かねて今あらんも測るべからずと、当春二月出陣のみぎり、自ら左腕に傷を付きおきたれば、先生の古傷にさもにたらん。イザ御覧下さるべしと、五人斉しく肩押し脱げば、いずれも腕に古傷あり。西郷始め一座の軍人愕然として、これを賞歎しけるが、西郷はもはや、我が運も是までなり、何ぞ今日となりて人を殺してわが身を脱するを為さん、諸君その心を以て潔く戦死さられるべしと断りければ、五人涙を含んで望みを失いしと云う。その信疑は知らず」
また、生存説が現実の事件と結び付いたのは、西南の役の翌年。明治十一年八月である。
西郷軍と呼応して事を起こそうとしたとして、陸奥宗光、大江卓、林有造らが裁判にかけられ、陸奥は有罪となり、禁獄五年の刑に処せられた。人々は、西郷を秘かに外人に託して、中国へ逃亡させたのだと噂しあった。
生存説に拍車をかけることになるのは、明治二十一年六月に行われた罪名特赦の請願である。明治政府は憲法発布に引っかけて翌二十二年二月、この請願を受容したので、隆盛は「賊魁」の汚名がとれ、正三位を追贈されることとなった。
生存説最大にピークは、明治二十四年のロシア皇太子ニコライの日本訪問であった。
かれらの日本訪問が近づくにつれ西南の役に破れ、ロシアに逃れていた隆盛以下の西郷党の面々がニコライ皇太子に随行して帰国するという噂が疫病のように全国に広がった。
この狂騒の中で、かの『大津事件』が起った。沿道警備にあたっていた滋賀県巡査、津田三蔵は、旧藤堂藩士で、名古屋鎮台の陸軍伍長として、西南の役に従軍し、薩摩、日向、大隅を転戦して軍曹に昇進。此の時の戦功により、明治十一年十月、勲七等に叙せられ、金百円を下賜された。
彼は、隆盛生存説を信じる余り、叙勲を剥奪されるかもしれないと言う被害妄想に陥り、その上、ロシア皇太子の来日は、漫遊を装った日本侵略のための事前の偵察行であるという風聞も有ったことから襲撃に及んだ。