山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石吹奏楽団40周年の原点

あれは昭和46年小生まだ30歳。山手照夫先生の言いつけで広く明石市民に呼びかけて市民音楽団を」結成となった。結果は当時山手先生が教えておられた明石商業の吹奏楽部の現役・卒業生の参加が多数あった。ある意味明石の吹奏楽の本流である明石高校OBの中で、少々傍流にあった先生の鬱憤の捌け口であったのかも。
当時、明石北高就任早々の松井隆司先生にも無理を言って急遽30人前後のプレーヤーをかき集め、明石デパートのホールで立ち上げの演奏会を開いた。
山手先生のもうひとつの願いは、明石に音楽ホールを作ること。音楽を市民に楽しんでもらうためには、それに相応しい場所が必要だ。
この願いは、衣笠市長にさんざん掛け合って今の市民会館が生まれた一つの推進力となりました。
お陰様で、今明石の吹奏楽を語る上で、発表の場・聖地ともいえる市民会館がある有難さの由来も再確認する必要があります。
その後、この楽団は明石市生涯学習の一環として場所を得て今日に至るまで営々と演奏活動を続けています。
その誕生直後か、明石公園で青空コンサートを開いた際、わたくしもユーホニュームを抱えて参加しました。