山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

西郷隆盛の遺言②

ところで、明治10年9月24日城山で最期を迎えた西郷達の遺体は淨光明寺に集められた。隆盛の首級は自裁後掻き取られ隠されていたことから、腹部の上に白布の上に横向けに置かれていた。
この検視の際、大山巌をはじめ薩摩出身者は、西郷らの遺体をまともに見ようとはしなかつた。哀れというか、何と言うか、複雑な気持ちで見ることが出来なかった。
特に、大山巌は午前9時前に淨光明寺に着いていたが、西郷の首級が発見されたと言う報告が入ると、顔色が蒼ざめ、本堂の片隅へ身体を隠してしまったという。
ところが、大警視川村義純は遺体の確認と所持品のチェックを執拗に行った。
この報告は大久保利通にもたらされたが、大久保はそれでも満足せず、熊本の川路利良を動かし、彼の配下・井上仙八を鹿児島に急行させ、なお所持品の確認をさせた。
遺体確認は、生前の西郷を知る面々が顔を連ねて確認した。川村も然り。とすれば、なお大久保が拘り探し求めたものが何で有ったか気がかりだ。
西郷隆盛の遺言」著者伴野朗はその物を西郷が残した遺書に外ならなかったと推理する。
確かに、鹿児島での暴発いらい、幕末維新にかけてあれほどの権謀術数の限りを尽くして時代を乗り切った大西郷とは思えない戦略戦術の無さで、まるで鹿児島不平士族に全てを放り任せて、抱き合い心中したようなありさまから、その死を確かめたのちにも、もし西郷が彼の知る裏の事情悉くを書き残し、其れが明らかになれば、まだ出来たての明治政府等吹っ飛んでしまうことになりかねない。それほど、明治の元勲とやらも手を汚し、人に言えない事ごとに手を染めた。
こう、大久保が心配したとしても不思議はありません。
孝明天皇毒殺の疑惑を始めとして、果ては明治天皇御自身の入れ替わりという説まで謎は数知れない。勿論坂本龍馬の暗殺の真相も。