山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

林 謙三 後  安保清康

龍馬さんの最後の日々に濃厚に関わった林謙三(のち安保清康)は1842年(天保13年)広島県向島西村、医師の家に生まれた。
18歳、長崎で医師谷川春道門下に。
19歳、蘭医ポンペイオランダ語を学ぶがやがて英書を読み海軍術を修める。アーネスト・サトウ日本語教師となる準備。
24歳、1865年(慶応元年)何礼之(が・よしゆき)の開設した塾で前島密等と共に学ぶ。フルベッキ師も教鞭をとっていた。
    前島は島津侯に招かれ鹿児島で英語を教授するようになり、謙三もさそわれて学資を得るため薩摩へ。
    前島が幕府に仕えるため薩摩を去った後、まねて交流のあった西郷隆盛坂本龍馬らが国府温泉で会合すると聞きこれに参加して日本国防海の急    務を訴える。かつ「保安年代以前の古制に則り兵政両権を皇室一途に帰せしめること」を説く。西郷はこれに大いに共鳴したという。
25歳、1866年(慶応2年)兵庫港に停泊中、薩摩藩吉井幸輔が来艦、船を降りて海軍術を広く教授する旨要請される。
26歳、1867年(慶応3年)薩摩藩に軍艦・春日の購入を島津久光公に進言。
    龍馬よりは内乱に関与せず、海援隊を率いて日本海軍のため弟子を養成し大局に備えるよう要請される。
以後は11月10日・11日の2通の手紙を龍馬から受け取り、急遽京都に向かい直後の暗殺現場に遭遇する。
誠に、龍馬さんとの因縁深い人物で、その後安保清康と名前を変えたが、日本海軍の振興に多大なる貢献を果たした。
まるで、龍馬さんとの約束を果たすためのように。

【その後の林謙三】
 慶応2(1866)年小松帯刀,西郷隆盛に請われて鹿児島(薩摩)藩海軍の養成に携わる。同藩の「春日」艦長となり,幕府の「回陽(開陽)」艦を破り,奥羽北越に転戦。明治2(1869)年兵部権少丞となり,海軍の創業に携わる。佐賀の乱鎮圧,台湾出兵に従う。23年中将に進み,佐世保鎮守府長官。29年男爵となり,安保と改称。浜口・若槻両内閣の海軍大臣安保清種は養子。<参考文献>玉井源作『芸備先哲伝』,手島益雄『安芸備後両国偉人伝』