山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

松本復興担当相は今・世良修蔵

『やがて江戸も開城した。西日本は全て官軍の味方である。
となると、残るは東北である。
東北諸藩には微妙な雰囲気があった。中央から遠いために情報が入りにくいこともあるが、各藩に尊王派と、佐幕派とが対立していて、藩主も家老も、迷いに迷っていた。
薩長が権力を握りつつあることはわかるが、まさか、幕藩体制がすぐに崩壊するとは信じられないのである。
そういう東北のど真ん中の仙台に、薩長は、適当な宮様を頭につけて、わずかな軍隊を、神戸から軍艦に乗せて送り込むのである。使命は、東北全体を官軍につけて会津攻撃を行わせることである。
最初、その役目を薩摩は黒田清隆、長州は品川弥次郎という、それなりの人物に指名したが、二人とも「冗談じゃない」と、きっぱり断る。
京都の新政権は発足したばかりであり、足元も不安定なのだ。
しょうがないので、遥か格下の世良修蔵にそのお鉢が回ってきた。引き受けた彼は、鬼にならざるを得なかった。

神戸から軍艦でやってきた彼らをとりあえず仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に威張っている。
しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか500名である。
それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊があり、その中で出世したのだというが、そういうものが公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。
しかも、彼が連れてきた兵隊というのが、これまた札付きのヤクザもんばかりだったので、傍若無人で忌み嫌われた。
当然ながら、仙台藩士の怒りが渦巻き官軍に反抗する機運となったのである。
それに、東北諸藩は、最初は、会津に対して降伏を勧め、会津も納得して「頼む」と依頼したのだが、その周旋ですら、ニベもなく拒否したのも世良修蔵だった。
堪忍袋の緒が切れた東北諸藩は仙台藩を中心として、あくまで薩長に対決しようと決まり、奥羽列藩同盟を立ち上げる。
その時点で、世良修蔵を斬ることが決まる。
場所は、現在の福島市の旅籠で、秘書と二人でさんざん酒を飲み女と寝ているところを、仙台藩士と福島藩士によって踏み込まれ、捕えられ、河原で斬首された。』
以上は戊辰戦争・東北の戦いのキッカケとなった世良修蔵斬殺の経緯である。
東北人が如何に難事に耐えに堪え、しかし遂にはこの挙に及ばざるを得なかったか。
たった9日で更迭された松本復興担当相の余りにお粗末で馬鹿馬鹿しい振る舞いが重なって見える。
菅災此処に到れりの感あり。