山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

サッカー命の日々・重い重い伝統の下・G16津野伸一寄稿②

何故にかくもサッカーにのめりこんだのか、今考えるに自分だに解らない点がある
。何故あれほど走れたのか、何故あそこまで勇敢にプレー出来たのか、3回生のリーグ終了後キャップテンを任されてからの丸1年。ある意味、鬼になっていたのかもしれない。
2部から3部に転落という耐えられない事態だけは、なんとしても避けなければいけないのです。丁度、本校はグランドの改修とかで、練習場も明石競輪場内のグランドを借りてのものとなった.

期待していた新入もこの年はまったくの不作でありました。とすれば、現有戦力での戦いしか残されてはいないわけだ。
ほんの数人を除いて、大学からサッカーを始めた素人集団となれば、あとはボールに対する誰にも負けない執着心と、90分フルに走れる体力・走力を付けることしか残されていない。
ある意味道はこれしかないのだから、あとはやり抜けるかどうかだけの問題です。

1−3回生の間は、小学生のころからの球扱いの経験を生かし、チームで一番速い走力にも恵まれ、持前の敏捷さと相まって、そのころのWMフォーメイションで言うところの、ライト・ウイングの位置をKEEPして、サッカーを楽しんでいたのが、4回生になっての、役割・立場の変わり様。かくして私もサッカー命の牽引役にと変身を迫られることにとなりにけり。
まず、体力作りにサーキットトレーニングの導入。各人体調・体重管理をさせて、せめて相手に当たっても、当たり負けしない体力作りを目指す。
グランドには、体育会に無理を言って、初めてシューテイングボードを設置して貰うことに成功、シュート力の養成と正確さを身につける。
おまけに通常練習の後、10Kのランニングを絶対欠かさない。ちょうど工事中ながら、一部供用していた、第二神明道路の舞子ー垂水間を往復すれば略3K、それも超ロングの坂となっているのを往復3回。そうでなければ、舞子墓苑を左に見て、その当時の八代学院いまの神戸国際学院のへ向かって北上し、多聞坂を下って、西舞子。生協の心臓破りの坂を登りきれば星稜台にでて本学は間近。このコースも約10Kでした。

各ポジションを考えれば、部員全体のテクを上げている暇はない。となれば、弱いポジションを徹底して鍛え上げれば、戦力も平均を保つようになる。このことの最大の被害者は2回生・濱口章君だつた。
小柄な体格をむしろ利して、センターFWの位置をかなりひき目に取り、ハーフからの球を左右どちらかのインナー・ウイングに捌いて、自身はGOAL前に飛び込む。
このパターンを来る日も来る日も、繰り返し練習する。バテバテになってからが、本当の練習とばかり、やらされている本人にすれば、この練習が永遠に終わらないのではと思うほどやり尽くす。
バックをGOAL前に立たせて、クリアーの練習でも、間近からキックを雨霰。これでもかと、糞がでるかというまで、球を出し続ける。ラスト一本の何十回続くことか。
しかしもっとも辛い思いをしたのが、GK中園寿二君3回生。いかに攻めても守っても、最終ラインを守るGKが一番肝心要なことは言うまでもない。また、GKのレベルの差が一番怖い。
といっても中園君も、GK専門で来たわけでもない。とならば、あとはしごくしか手は残っていない。それに練習の一番の締めでのGK練習は、全員がGOALを囲む格好で、それぞれが声を出して、集中する。

実は一対一で球を蹴る方も大変なんだけど、それを顔に出しては練習にならない。最初はEASYボールで体を温める。次第に球は高く・強く・低く・GOAL端すれすれに・時にはGKの腹めがけてFULLSWING。
そうこうするうちに、GKの息が上がり、足取りももつれがちになる。目は焦点を失いがち。・・それを通り越して球を蹴り続けていると、声を出して泣きはじめる。それをも構わず、足元にくらいついてくるのをふりほどいて蹴りつづける。
こちらも必死の形相をしていたことだろう。そして終いに中園は怒り出す。不思議と構えまでシャキットとなり、私を睨みつけてくる。
こうなると5本に一本は素晴らしいセービングが出てくる。そしてラストワンの声がかかる。・・ほんとキツイ練習をしたものです。
けれど驚くことに、中園君も濱口君もそれに耐えてくれた。泣きごとを聴かされたことは一度もなかった。
後年、この時の3回生たちは、社会で大成功をおさめることになる。野村証券常務・オムロン常務・富士パン支配人等。しがない自営業者の私を尻目に大活躍されている。
そのみんなが口を揃えて曰く『あの一年の苦労を考えれば、会社でのしんどさなんて、余裕でした。』