山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

藤堂高虎と津野親忠①「下天を謀る」安部龍太郎

今や、我が先祖は土佐戦国七雄に数えられる「津野氏」であると思い込んでおります。それが心の拠所の一つとなっているかも知れません。実際はどうなのか、考えないわけでは無いのですが、親父の昔話に、曽祖父・久万蔵が、津野親忠公を祀る考山祭には、裃に威儀を正して出かけていたという記憶を唯一私が知る裏づけとして信じています。その津野を代表して語られるのが津野親忠公であります。親忠公は実は津野直系の当主ではなく、長宗我部元親の三男であり、津野勝興が長宗我部の軍門に降る際に親忠公を養子として迎えて、自身は隠居したのが経緯です。当初、親忠が幼少であったため、勝興が代わって政務をみていたようです。そして天正6年11月、勝興は死去しました。この勝興の死によって津野氏嫡流の血統は絶えたわけです。
歴史上、津野の代表として語り継がれている親忠公の、あまりとりあげて語られることがない、身びいきではなく、何故だろうと不思議に思うほど、親忠公の消極的ではありますが、日本史上果たした役回り、それが、正当に評価されていないことが歯がゆくてなりません。かの土佐好きで知られる司馬遼太郎先生も、「夏草の賦」で元親を、「戦雲の夢」で盛親を書きながら、親忠に関しては、ほんと筆が走っていない。それほど資料が少なくて書きにくいかもしれません。
ところで、天下分け目の戦いと言われる関が原の合戦に勝利した徳川家康にとって最大の関心事は
島津をどう抑えるかと言うことでありました。260年後薩摩に維新されることを予見していたに違いありません。その島津を抑える拠点として土佐が重要な立地にありました。ところで家康と元親はかって、対秀吉包囲網の一員として、手を組んだ仲であり、盛親も関が原に際しては、家康に「お味方する」との密書を発するも、悉く石田三成の西軍に阻まれて、しぶしぶ南宮山に陣を張ったという事実があります。その盛親が殆ど戦わずして、戦場を駆け抜けて、土佐に帰り、井伊直政を通じて謝罪をし、そこそこの領地安堵の感触を得ていたのは確かとおもわれる。そもそも、秀吉の九州征伐の魁として行われた、戸次川の合戦において最愛の長男・信親(信長の信を与えられた)を失った元親は、このころより人換わりしたように精彩を失ってしまったのだけれど、後継者決定を遅れに遅らせ、挙句四男盛親を指名し、信親の娘を盛親に嫁がすという愚挙におよんだ。このことがシコリとなり、親忠は幽閉されてしまうのだが、盛親が家康のもとに、謝罪に行く際、藤堂高虎と親しかった親忠に土佐の半国を与えられるとの噂を信じ込み家老久武内蔵助親直の手により、親忠に詰め腹を切らしてしまう。このことを高虎より知らされた家康はこれ幸いとばかりに、兄を殺した盛親を「元親の子に似合わしからぬ不義者」と断罪し、一命と引き換えに土佐一国を取り上げてしまった。
もし、親忠が元親より、まっとうに後継者とされていれば、あるいは盛親が親忠を手にかけることが無かったならば、家康も土佐一国を取り上げるまでのことは、まさかおこなえず、山内一豊に土佐を与えることも出来なかったことになる。さすれば、山内進駐による上士・下士の不毛な摩擦もおこらなかったし、幕末維新の原動力の一端を担った草莽が出現する土壌もありえなかったのです。
この歴史上のもしもが、あまり知られていないことが不満であった私にとって、今神戸新聞夕刊に連載中の「下天を謀る」は藤堂高虎を主人公とした歴史小説で、(125)第4章九州征伐(20)にいたって、ようやく元親と高虎との係わりが語られ始めており、期待以上に親忠についても書いてくれるに違いないとの期待に小さな胸を躍らせているところです。