山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

武田氏異聞・大崎玄蕃

 武田勝頼土佐の会によれば、かの武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は定説では天正10年(1582年)天目山で自害したとされているが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ち延びたとする。
その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後名前を「大崎玄蕃」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(1609年)8月25日64歳で没し、鳴玉神社に葬るとの記録があるとのことだ。
丁度今年は没後400年の年に当たり、伝えられる玄蕃踊りや玄蕃太鼓を催して勝頼を偲ぼうと盛り上がっている。
その勝頼の長男信勝は津野町に入り、大崎五郎と名乗り、葉山を流れる川を甲斐の川と名付け(現・貝の川)、玄蕃踊りを広め大崎神社を勧請したという。
津野の地での恩義からか、天正13年に長宗我部元親が秀吉の四国征伐に敗れて、土佐一国のみの領有を許された際、元親の3男津野親忠が人質として差し出されたのに御家人として信勝が付き従ったとされる。
関ヶ原の合戦直前に親忠が盛親に詰め腹を切らされたのちも、一族が大阪夏の陣に馳せ参じたとの話も伝わっている。我が一族と意外や武田との濃厚な繋がりが有ったかも知れない。
これも歴史のロマンと言っていいんだろう。