「2部中堅として健闘」−1969年〜1976年
学部17回 吉田 進
私が監督をやるようになったのは1968年(昭和43年)秋です。当時大学側で監督をする先生がいなかったが、なぜ卒業間ばかりの私がやる事になったかは いまだに良くわかりません。
たぶん4回生のとき期待を裏切って3部に降格して卒業。あと2年間部員が極めて少ないなかで、一時は4部にもなりリ−グの組み換えがあり3部という苦々しい状況のなかで誰かにやらせておけばよい、ということではなかったかと思います。
私は卒業後オムロンに入社、京都勤務となったのを幸いに、1年半後に監督となり
以降水野さんにバトンタッチするまで足掛け10年間やらせていただきました。
私はサッカ−の指導者としてのスキルもノウハウも、ないので毎週休日に高丸の丘を訪れ現役と一緒に汗を流すこと、合宿を共にすること、そして幹部と年2回運営方針を討議して意思統一をはかることをやりました。
当時商大サッカ−部の部長としては、「ラッチェルこと田中先生」のあとを引き継いで、「渡部浩太郎」先生が一貫してやっておられました。先生は 救急車で部員をしばしば運んでいただいた話で有名です。
1969年水野主将時代、秋のリ−グ戦(年1回方式)で1位となり、入れ替え戦で大市大を破り「歓喜の昇格」を果たし、以降数年間2部の中堅を維持するチ−ムになりました。しかし残念ながら1976年に3部降格しました。
当時は1部8チ−ム、2部8チ−ム、3部4ブロック、で構成されていました。
1969年(昭和44年) 水野主将(4回生10人) 2部昇格
1970年(昭和45年) 武山主将(4回生 7人) 2部5位
1971年(昭和46年)(故)矢頭主将(4回生 6人) 2部5位
1972年(昭和47年) 嶽元主将(4回生 4人) 2部3位
1973年(昭和48年) 八隅主将(4回生 5人) 2部5位
1974年(昭和49年) 鈴木主将(4回生 7人) 2部7位入替戦勝利残留
1975年(昭和50年) 立花主将(4回生 5人) 2部5位
1976年(昭和51年) 新谷主将(4回生 3人) 3部降格
これらの卒業生が後輩たちの練習や合宿に良く参加していました。私の日誌を見ると1974年信州での夏合宿には若手OBが必ず誰かが居るようにスケジュ−ル組めていました。
それまでと大きく変わったことは、高校時代の経験者がだいぶ増えてきたこと、そして練習のやり方など専門的になってきて「うまくなった」こと。われわれのような責任感・悲壮感ではなくサッカ−が好きで、楽しんでやっていること、しかしメンバ−間のサッカ−への姿勢は厳しく、情熱は強く、ひたむきさに溢れていたと感じてます。
なによりもキャプテンはじめ4回生を中心に自主的・自立的なチ−ムつくりが商大の特徴でした。
試合では「まとまりが良く」て「ヤバイなあ・・」という試合もなぜか良く勝っていました。 個人レベルは負けてるが、まとまりの悪いチ−ムには、「お得意さん」として勝つことが多かったことを思い出します。
一方で1部への壁はとてつもなく高い、という事も実感しました。
ではこれから各年代毎に現役時代を回顧してもらいます。