山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

愛された記憶・西新町スキャンダル

東京から追い返された親父が四兄・岡田四郎を頼って明石に身を寄せたのは、昭和10年三縄ー豊永間が開業して旧高知線区間多度津側と一続きになって、須崎ー多度津間を土讃線とされて間もなくの頃らしい。
さっそく職を探さねば居候の身は辛い。そこでどうやら最初にありついたのが、明石海岸にあった錦江ホテルの経理係。四郎兄の世話で、ついでに即席に経理の手ほどきをしてのことではなかったか。
これは几帳面で器用だった親父にはぴったりの職場だった。後々まで、ホテルについては一家言をもっておりましたし、ホテル屋のセンスもこの時身に付けたものです。
・・そして、そのホテルに我が母・光枝が、次姉の君枝とともに働いておりました。
母は旧姓を井筒といい、井筒は明石新浜の漁師・網元であったと聞いておりますが、祖父源市はその頃は、旧明石市内の西に位置する、西新町で腕のいい散髪屋・源床を開いておりました。
源市・しげ夫婦は都合8人の子を生みますが、全部が女の子という偏り様で、上3人が菊枝・君枝・光枝と揃った美人3姉妹で通っていたらしい。
18歳で夭逝した和子、そして八女八重美と生まれるころには、源親父はどうせ又女だろうと、諦めの境地だったとか。
ささやかな散髪屋であつても、男子を儲けて、跡を取らさないと井筒が絶えることになる。
かくして、婿取りを考えねばならぬこととなり、上から順番に年頃になるのを待ちかねていたことでしょう。
たしかに、母の上二人の姉はタイプこそ違え、なかなかの美人で、菊枝さんはほっそりたおやかな和風美人、君枝さんは錦江ホテルで明石の皇后さまと言われる程の美貌の持ち主。
この姉の菊枝さんは見染められて、いやいやながら沢専治の嫁になり、君枝さんはホテルのOWNERのお母様の親戚筋で軍人の山口正雄と周りもうらやむ恋愛結婚。
成り行き上、母が婿を取って散髪屋を継ぐ段取りとなりました。三木の人で、腕のいい職人で源親父からすれば、打ってつけの御仁もみつかって、いよいよ結婚式をあげることになりました。そして実際、結婚式を挙げたらしい。
その際の高島田着物姿の写真が残っています。が式を挙げたその晩、母は親父のもとに走った。
このことを聴いたのは、私が高校生になってからのこと。まあそこまで決断を引っ張ったもんだという感想と、いやよくぞ決断したものだという感慨がありました。
とりあえす、この決断がなかったら、私はこの世に生まれてはいなかった。
両人は交際があったに違いなく、しかし親父からの具体的な申し出が無いまま、母が家の事情に従わざるを得ないと決心したものの、土壇場でたまらず行動を起こした。
すでに神戸の松田文蔵商店(ライジングサン石油代理店)に職場を変えていた親父のもとへ奔つた経緯については、両者の言い分が違っている。
親父は母の方からやってきたとしきりに色男ぶったことを言い募っておりましたが、よくよく聞いてみますと、母の結婚式当日、親父が母にお幸せにとかなんとか電報をカマシタことが判明した。
これを見た母がたまらず奔ったというのが事の真相らしい。この際、祖母・しげさんは両人のことは承知していたらしくこの一大決心を応援してくれた。
あとのことは任せなさいとまで言ってくれたとのこと。その騒ぎがどう収まったのかまでは確かめてはいないが、昭和16年1月21日錦江ホテルで伊藤悌夫妻の仲人で挙式.新居を西新町の源床近くに構えたという。
私がその年の11月22日生まれ。できちゃった結婚ではなかったことは確か。
結婚に際して、須崎に帰郷、両親に母を紹介してところ、信太郎爺さんは一度式を挙げた女を嫁にせずともと、少々の異論があったとか。
しかし、政婆さんの「清志が意中の人ならなんの不足があるものか」との一言で目出度く了承となったとか。 後日この一連を西新町スキャンダルと称す。