山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬「越行の記」発見される・暗殺の少なくとも10日前に認める

原文
越行の記
十月廿八日福井ニ達ス奏者役伴圭三郎来ル御書を相渡ス
直柔が役名を問ふ、海援隊惣官を以てことふ  同夜三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々を言上仕り其うへ御論拝承仕度およそ明白なる国論を海外迠も不聞を恐るゝことニ御座候。
扨此度こそ私共も御国論拝承仕り度心願在之候。村巳曰ク老主人出京も来月二日ニ取定めたり、事多端なれバ御目にかゝり不申。
然ニ前條御尋の如きハ拙者より申上候。
されバ老主人出京後彼是手順もあるべけれども将軍家政権を御帰しとなれバ将軍職も共に御帰し不被成てはとても御反正と申ても天下の人心折合不申と国論こゝに
     同廿九日
在之候云々、此夜奏者伴圭三郎来り御答書を受取ル

■丗日
朔日朝、三岡八郎及松平源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
      村巳に頼置しニ三八儀は先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会かたくさしとめられたり。
故ニ政府の論儀ニより君側中老役松平源をさしそへたり。
其故にや三八が来りし時、松平源を目して、私しハ悪党故君側より番人が参りました、といへバ松平源も共に笑ふ 
夫より近時京師の勢前後不残談論ス此談至り尽シタリ
深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信反ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て天下に示さゝる
近年来幕府失策のミ其末言葉を以する事ハ天下の人皆不信さるなり云々
是より金銭国用の事を論ズ曽而春嶽侯惣裁職たりし時三八自ラ幕府勘定局の帳面をしらべしに
幕の金の内つらハ唯銀座局斗りなりとて気の毒がり居候御聞置可被成候惣じて金銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人なかるべし
十一月五日京師ニ帰ル福岡
参政に越老侯の御答書を渡ス
右大よふ申上候謹言
直柔
後藤先生

近日中根雪江は越老侯の御供村田巳三郎ハ国本のこる家老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝


現代語訳
越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。
さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。
しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。
そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。
翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

三十日(朔日を訂正)朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。
三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。
それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。
(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。
かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生

近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝