山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

薩長同盟締結前夜・中岡慎太郎登場

この乙丑の変の半年前、征長総督付参謀の西郷が不戦に先だって提示した条件の中で、長州藩がもっとも難色をしめしたのは、攘夷派公卿五人(七卿の内2人は死去)の身柄引き渡しであった。
幕府は五卿を別々の藩に移転させようとしたのだが、間に入った福岡藩が一括で受け入れることを提案。長州は、これに同意した西郷の真意を確かめるべく中岡慎太郎にその役を託すこととなる。
ここに中岡慎太郎が幕末の歴史に登場した。
土佐藩を脱藩して、長州に渡った中岡は七卿が保護されていた三田尻の招賢閣政冶議員(衛士)として公卿の信頼を得ていた。
彼は高杉とともに薩摩藩島津久光の襲撃を画策したり、禁門の変にも参加している。
このことから長州急進派からの信頼も厚かった。
福岡藩の月形、早川はこの中岡に薩長和解の必要性を説き西郷との会見を強く勧めた。
1864年12月4日早川の従者を装った中岡は、小倉の地で西郷と初会見を行った。
そして、西郷を信頼出来ると見込んだ中岡は、以降薩長同盟実現に東奔西走を始める。
12月11日、月形・早川の同道による高杉と西郷の会見に同席した中岡は1865年1月に五卿を筑前へ、3月には大宰府へと遷座した。
続いて、4月30日に桂小五郎と会って5月15日に入京すると、薩摩藩邸で薩長融和を説くとともに、西郷と桂の下関での会談を提議。そして賛同を得た中岡は西郷を説得するために鹿児島へ、行動を共にしていた五卿付の土方楠左ェ門は桂を口説くために下関へと向かった。
一方、閏5月10日に下関に到着した坂本龍馬は5日に土方と会い、中岡とともに薩長の周旋に奔走していることを聞かされた。
龍馬はこの時初めて中岡の尽力を知り「これはしごくの妙案、微力ながら協力しよう」と語ったと云う。
かくして、この後龍馬は単身で下関に現れ、中岡とともに同盟締結へ八面六臂の活躍を見せるのだ。