山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

サッカー命の日々⑩神戸商大サッカーとの遭遇

img400A.JPG
























               昭和37年5月13日三大学(岡山・広島・本学)広大正門前 前列右端

いまさらながら、よりによって凄まじい実績と輝かしい伝統を背負った神戸商大サッカー部に入部さえしていなければ、このような命を削るまでの試練は待っていなかったことだけは確かです。最初入学時は、中・高校時代を通じて励んでいたTRONBONEを生かすべく、音楽関連のクラブを訪ねてみた。
その頃の商大の音楽関連といえば、マンドリンクラブとグリークラブ。最初グリーの門を叩き、二三度は練習に参加してみたが、そもそもラッパ吹きはコーラス・合唱を馬鹿にしている処があり、いまさらグリーに溶け込むのは不可能とすぐ判断した。次に、マンドリンクラブですが、この商大マンドリンクラブは当時チョットしたもので、古賀政男率いる明治大学倶楽部に引けをとらないと言えば褒めすぎだけど、名曲「真珠とりのタンゴ」原名PERALFISHERはマンドリンプレクトラム楽器)の特性をよく引き出した
名編曲で、商大マンドリンのテーマ曲でした。そんな音楽レベルはかなり高い水準のクラブでしたが、何しろ楽器から出てくる音が小さいこと。オーケストラ編成の50人が懸命に奏でても、ラッパの一本もあれば、その音を掻き消すことができるのでは。ちうわけで、これもどうもいけません。そこで思い出したのが、小学校でのサッカー経験それもストライカーの名を欲しいままにした栄光の日々。体育の北田先生には、卒業記念のサインにもう少し身体が大きくなるようなら、オリンピックを狙えるなどと、おだてて書いていただいたことを思い出した。・・・体育館の左端2階に部室があり、新入生の入部申し込みにしては、少々遅まきのクラブ訪問。おずおずと入部希望を申し入れると、「ところで経験は」との質問がきた。思わず小学校でやっていましたと申告すると、何故か、「小学校からだって」との笑い声が上がった。その後すぐ分かったことだけれど、商大サッカー部員の殆どが、大学に入ってから始めたらしく、中・高での経験者は貴重な存在でしたが、さすがに小学校からやっていた部員はいなかった。経験上は胸を張っていいのでけれど、なにしろ中・高とは本ちゃん中抜けであることから、さて今通用するか自信はなかった。かくして4年間のサッカー学部暮らしが始まった。