山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

年の初めの家勢調査・半世紀ぶり

 これもある意味、津野興亡史の片隅にあっても良いのではないかと考えていたのが、津野の家勢調査。
その基になるのが、昭和38年。祖父母の結婚70年を記念して須崎の本家に親族一同が会した際、親父の清志さんがその場で作成した系図写真です。
襖に押しピンで止められた模造紙に大書されている祖父母、信太郎・政に始まる一族の系図
9人の子をなした祖父母は、この時点で、9人の婿・嫁を得てそれが34人の孫を成し、その孫に16人(写真では17人)の連れ合いを得て、曾孫が36人。総勢104人、どこかで聞いたような数字です。
それと驚くのは、親父が付けていた備忘録に、お店の売り上げから、借金の返済状況まで詳しく書かれた末尾に親兄弟から甥・姪からその子たちまで、克明に生年月日が記されていることです。
幼少の頃お袋に、この親父は、親に持つより伯父さんに持つ方が良いんじゃないの等と減らず口を叩いたほど、故郷孝行をしていた親父らしいと言えばそうなんだが。
これによると、長兄清寿とは21歳と親子ほども年が離れている。この長兄が出来者で、まだ家運も隆盛の頃、旧制中学を兄弟でただ一人終えて、確か満州鉄道の関係でなかなかの羽振りだったとか。
その長兄を頼って東京へ押しかけ、挙句冷たく追い返された途中、電車賃にも事欠いて転がり込んだのが、当時明石税務署勤務だった兄四郎宅だった。これが明石との因縁の始まりだつた。
そんな経緯もくみ取れる系図写真を見つめなおすうち、この系図に書かれた人についても詳しくは知らないのに気付く。ましてや46年経った今、この系図がどう広がっているのか知りたくなってきたのは当然のこと。
来年のブラジル行きも大いに関係していて、確か昭和14-15年神戸から笠戸丸に乗ってブラジルへと移民した次姉一家を見送った話も思い出す。この姉・鶴子さんは同じ津野姓に嫁ぎ、ブラジルに渡っている。
親父の兄弟はすでに末子の叔母独りを残すのみとなったが、今のうちにもう一度、家勢調査をやっておかなければ。
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