山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

平成4年ー平成6年末

前述したように、まるで朝・夜を取り違えたまったく不規則な生活を規則正しく過ごす。
その間のメモを見ると、ほとんど3人息子のことばかり。
三男高校卒業、長男就職(大阪勤務)、三男ロスへ、二男就職内定、長男東京転勤、長男婚約、二男就職(東京勤務)、二男大阪勤務決定、長男結納、長男結婚式(IN HAWAI)。
とくに二男の勤務地が大阪に決まった経緯は、我々のことを心配して、できるだけ近くでの勤務地を希望したため。また長男のハワイでの挙式で初めて日本の地を離れた。10時間あまりのフライト、右通行のハイウエー、
バースそっくりの司祭さま、海岸べりの白いチャーチ。ハナウマベイでみた熱帯魚。
三人の息子達が、人生の一番大切な決定をする年齢に達し、それぞれが個性に応じた道を選んでゆく。
そのたびに相談を受けて、その時点では間違いのないアドバイスをしたつもり。すくなくとも自分のような仕事だけはさせたくなかった。
この間の痛恨事は平成5年7月には母親を75歳で亡くしたこと。
このブログを読んでお気づきでしょうが、親父のことは山ほど出てくるが、母親のことは殆ど書かれていない。
その訳は、親父のことを語るのは、懐かしく楽しいが、母親のことは切なくて辛い。
その母親の死を早めた自分の不注意。詳しくは辛くて書けないが、もう少し思いやっておれば、もう少し長生きさせ得たのではないかという後悔があります。
母親の病状に気付かなかった自分の情けなさと、私に気付かせたくないばかりに、隠し通していた母親の気持ちを考えると、未だに涙する。・・・叱るようにして医者に見せた時はすでに手遅れもいいとこだった。